自然资源部晒出我国矿产资源“家底” 矿业绿色发展取得
人民网北京12月3日电 (记者杨曦)矿产资源家底数据是基本国情国力的重要组成部分。近日,自然资源部发布的《中
日本文学概論期末レポート
坂口安吾は近代文学と無頼派を代表する作家の一人として知られている。だが、その作品への分析と考察に入る前に、本文が坂口安吾を中心とした理由と趣旨を説明しなければいけない。
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自分は中学時代から一緒に遊んでいた先輩がいた。高校も同じ中国の進学系の学校に通っているので、朝6時から深夜11時までの受験生活を送っていた。元々繊細な心を持つ彼女は、長い間の受験戦争で鬱病にかかって、学校で自殺した。当時の自分も「高考」という戦争に陥って、両親と先生から教わった勉強の意義を理解しようとしていた。こんな状況で、私は戦後派と無頼派の作品に接触し、三島由紀夫や坂口安吾などの作家の作品を読むことに夢中になった。例えば、「金閣寺」では、大戦ですべての過去が滅びる中で、金閣寺への幻想と理想の蜃気楼が主人公を雁字搦めにして、人々の精神は大戦中で抑圧され、人間性の輝きは全然見えない。主人公が最初に憧れている金閣寺は日本の過去に拘る思想の象徴である。そして、一連の事件が起こった後、彼は意識した。金閣寺はもう幻になった。今残っているのは、ただの綺麗な外形と醜い現実。従って、彼は金閣寺を燃やして、「生きようと私は思った」という言葉を言い出した。さらに坂口安吾は「堕落論」の中でいたように「そして人の如く日本もまた墜ちる必要であろう。落ちる道を墜ちることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」。自分も蛹から蝶になることができるのか。インリューションの中で自身を救い、生還できるのかと考えた。そして上述の理由以外には、坂口安吾の作品の中で「日常的な言葉と平然な語り口を通して、読者に凄まじい威力を伝える」という特徴があると私は考えている。この点については、後ほど分析することになる。
まずはテクストの小説「真珠」の冒頭部分で「十二月八日以来の三ヶ月のあひだ、日本で最も話題となり、人々の知りたがつてゐたことの一つは、あなた方のことであつた。」(1)という日付を提示することがある。このような書き方は「真珠」に限らず、坂口安吾の『白痴』の中でも、「それは四月十五日であった。その二日前、十三日に、東京では二度目の夜間大空襲があり、池袋だの巣鴨だの山手方面に被害があったが、たまたまその罹災りさい証明が手にはいったので、伊沢は埼玉へ買出しにでかけ、いくらかの米をリュックに背負って帰って来た。彼が家へ着くと同時に警戒警報が鳴りだした。」(2)のような「私小説」の特徴を示す言葉がある。この特徴も柄谷行人の「坂口安吾とフロイト」の中で、坂口安吾への評価「実際、彼の作品では、エッセイが小説的で、小説がエッセイ的である。どんな作家にもあるような代表作というべきものがない。」を証明している。
そして「僕」という戦場以外の視点から見て、考えた戦争というものを検討するため、下の文に注目したいと考える。
「普通、日本人は、戦争といへば大概この決死の戦法の方を考へてゐる。さうして、こんな大胆なことが、いつたい、俺にも出来るだらうか、とい ふ不安に悩んでゐるのである。だから、召集を受けて旅立つとき、決して楽天的ではない。だが、パリジャンやヤンキーは楽天的だ。娘達に接吻を投げかけられて、鼻唄まぢりで繰込むのである。この鼻唄は「多分死にはしないだらう」といふ意識下の確信から生れ、死といふものを直視して祖国の危難に赴く人の心ではない。日本人はもつと切実に死を視つめて召集に応じてゐるから、陽気ではなく、沈痛であるが、このどちらが戦場に於て豪胆果敢であるかといへば、大東亜戦争の偉大なる戦果が物語つてゐる。必死の戦法といふものが戦争のルールの中になかつたなら、タッチダウ
の要領でも、世界征覇が出来たであらう。」(3)
一見、この段落は「西洋的な思想の甘さ」と「日本文化にある玉砕精神への評価」二つの部分から構築している。当時から見れば、これはまた「九軍神」のような言論統制によって生まれた画一化、讃頌の平面とイデオロギーしか過ぎない。しかし、その裏にあるのは坂口安吾の「日本伝統思想への嫌悪」である。その中で最もうまく使えていたのは「普通」、「不安に悩んでいる」、「楽天的」この三つの言葉である。
戦中の小説であれば、あれほどのナショナリズムの中で、誰もこんな言動に驚かないだろう。だが、この段落が戦後あるいは平和時代の読者に読まされたらどうなるだろう。我々現代人にとって、「普通」とは何か簡単に定義できないが、「戦場で自分が決死の戦法をうまく実行できないことから不安を感じる」また「生還という本能的な反応が楽天的と呼ばれている」のような人間は「普通」とは言えない。この描写技法は『白痴』の中でも頻繫に現れている。
「三月十日の大空襲の焼跡もまだ吹きあげる煙をくぐって伊沢は当あてもなく歩いていた。人間が焼鳥と同じようにあっちこっちに死んでいる。ひとかたまりに死んでいる。まったく焼鳥と同じことだ。怖くもなければ、汚くもない。犬と並んで同じように焼かれている死体もあるが、それは全く犬死で、然しそこにはその犬死の悲痛さも感慨すらも有りはしない。人間が犬の如くに死んでいるのではなく、犬と、そして、それと同じような何物かが、ちょうど一皿の焼鳥のように盛られ並べられているだけだった。犬でもなく、もとより人間ですらもない。……よかろう。彼はせせら笑うのだった。俺はただ醜悪なものが嫌いなだけだ。そして、元々魂のない肉体が焼けて死ぬだけのことではないか。俺は女を殺しはしない。俺は卑劣で、低俗な男だ。俺にはそれだけの度胸はない。だが、戦争がたぶん女を殺すだろう。その戦争の冷酷な手を女の頭上へ向けるためのちょっとした手掛りだけをつかめばいいのだ。俺は知らない。多分、何かある瞬間が、それを自然に解決しているにすぎないだろう。そして伊沢は空襲をきわめて冷静に待ち構えていた。」(4)
この文にある「焼き鳥」という言葉と「真珠」の中にある軍部への風刺は同工異曲だ。「真珠」の結末にある「遠足」も同じ効果があると考えている。
「あなた方は、自分の手で、真珠の玉と砕けることが予定された道であつた。さうして、あなた方の骨肉は粉となり、真珠湾海底に散つた筈だ。あなた方は満足であらうと思ふ。然し、老翁は、実現されなかつた死後に就て、お花畑にまきちらされた白骨に就て、時に詩的な愛情を覚えた幸福な時間があつた筈だが、あなた方は、汗じみた作業服で毎日毎晩鋼鉄の艇内にがんばり通して、真珠湾海底を散る肉片などに就ては、あまり心を患はさなかつた。生還の二字を忘れたとき、あなた方は死も忘れた。まつたく、あなた方は遠足に行つてしまつたのである。」(5)
この二つの坂口安吾の作品の中で、一番注目すべきだったのは、「崩壊された言葉と日常」と「ガランドウのエピソードから奪われた人間性」である。そのあまりにも日常的な言葉で、人間の人間性が剥奪された死に様を描写し、人間と動物の境界もこの言葉によって消えてしまった。死者を眼前にした生きている者から、通常ならば起こるべき情動「恐怖」、「悲しさ」「同情」は全くない。ただ「遠足」みたいに自分の死を迎えた。そこでは日常を構成するための言葉が壊れている。この狂った場面(大空襲で焼き尽くした世界)や思想(「九軍神」の玉砕)と崩壊した日常を交わって、背筋が寒くなるような文章を作っていた。通常では「死」より恐ろしいものがないと人々が考えているが、実際に、「死の意義」また「死の概念」まで失われたほうがずっと恐ろしい。
「真珠」では、「あなた方」の部分と「僕」の部分が交錯している構造になっている。さらにガランドウのエピソードを増やすことによって、読者を麻痺させ、そして気づくほどよりその悲しさと恐怖を感じるのだ。あの時代で「あなた方」は「九軍神」として神格化された分、その代わりに代価を支払わなければならぬ。
人間は「人間」だ。他のものにならない。正に「堕落論」で語った
「人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」(6)
人間は気高い瞬間があるが、卑劣な時もある。私は坂口安吾の作品の中で見たこの堕落は堕落ではなく、世間への風刺であり、人間の始まりと結末でもある。まばゆい理想と信念を持つ人々は初心の道から外れ、間違っていることを知っているのに、心の弱さと欠如を隠し、最後には自己の矛盾に潰された。その醜い現実から自分本来の姿を見つけ、最初の人間に戻って来た。「堕落」とは、この循環のことである。
注また参考文献:
1) 「真珠」「坂口安吾全集 03」(筑摩書房1999年)三九○頁
2)「白痴」「坂口安吾全集4」(筑摩書房1990年)
3)「真珠」「坂口安吾全集 03」(筑摩書房1999年) 三九一頁、三九二頁
4) 「白痴」「坂口安吾全集4」(筑摩書房1990年)
5) 「真珠」「坂口安吾全集 03」(筑摩書房1999年)四○一頁
6) 「堕落論」「坂口安吾全集14」(筑摩書房1990年)
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